変大佐の備忘録

「こころのなか」

【Rewrite】こたことは何故ぼくらの胸を詰まらせるのかPart2【〜Terraまで】


 これは反則。袖引っ張りとかいういじらしさの極致にある仕種をこんなところで持ち出されたら惚れるに決まっている。小鳥は確信犯(誤用)なのか?
 こんな風に、瑚太朗にめちゃくちゃになるまで抱きしめてもらいたいシーンが小鳥ルートではよく見られる。でも瑚太朗が真実と向き合う前に抱きしめると小鳥はたぶん本当に壊れてしまうんだよなあ……
※画像を提供してくださったリブレさんに深く感謝申し上げます。PC版を所持していないので直撮りを載せるわけにもいかず……
※当記事は【Rewrite】こたことは何故ぼくらの胸を詰まらせるのかPart1【〜小鳥ルートまで】 - 変大佐の備忘録の続きです。こちらをお読みになってからお越しください。また、今回からはRewrite本編全体を通したネタバレを含みますのでご容赦を。
 今回はRewrite中級者向け。なかなかに難解な部分を取り扱いますので覚悟してお読みください。

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【Rewrite】こたことは何故ぼくらの胸を詰まらせるのかPart1【〜小鳥ルートまで】

※この記事は、お前もオタクなら好きなものをべた褒めする長文を書きやがれ|まきちゃん|noteに影響を受けて執筆したものです。この発想をくれたまきちゃんさんにこの場を借りて謝辞を述べさせていただきます。

はじめに

 本記事はADV「Rewrite」の内容を取り扱いますが、ネタバレを含まずこたことというカップリングの良さを語るトピックと踏み込んだ内容を語るトピックを併設します。ネタバレを含む領域に入るときには告知をしますので、最後のEDまで完走してからまた読みにきてください。
 また、この記事によってRewriteへの楽しみが失われたとしても当方は一切責任を負いません。


君は「こたこと」を知っているか!?

 Rewriteという神ゲーがある。ある一点を除いて何から何まで神なのでみんなプレイするように。できれば+(プラス)ではなく無印。終わったらファンディスクもあるぞ。なに、漫画版とアニメ版!? 悪いことは言わないから先にゲームをやってからにしておきなさい。
 ……それはさておき、このRewriteはいわゆる女の子を攻略していくゲームに当たるわけだが、ここで取り扱う「こたこと」とは、その主人公である天王寺瑚太朗と、五人(+シークレット)いるヒロインの中の一人、神戸小鳥とのカップリングを指す。
 本稿では彼ら二人に焦点を当ててべた褒めしていこうと思う。覚悟をしておけ。

ギャルゲにあるまじき一途さ

 通常、恋愛ADVにおいて、主人公が誰に好意を寄せるかはヒロインそれぞれのルートに突入するまで不確定だ。プレイを始めたとき、主人公の意思は透明に近ければならない。プレイヤーそれぞれの「推し」に応えるため、選択肢によって意図的に好意を抱く対象を選択することができるように。
 だが、この天王寺瑚太朗という男は違う。この男は他のヒロインのルートへ突入しても神戸小鳥のことを想い、他のヒロインに神戸小鳥との関係を配慮され、挙げ句の果てに最後の最後まで神戸小鳥のことを吹っ切れないことすらある。プロローグの語りで神戸小鳥の名を出し、共通ルートでもことあるごとに神戸小鳥のことを考えている
 対して神戸小鳥の方はというと、恐らく彼女も常に天王寺瑚太朗のことを考えているであろう。クリアプレイヤー諸氏なら、作中の彼女が瑚太朗の見えないところでどう振舞っていたかは把握済みであると思われる。
 なのに、プレイヤーはヒロインを選択することができる。破綻なく。一切の破綻なく神戸小鳥以外に恋ができる。この理屈は、 Rewriteクリアプレイヤーにとっても難解なものである。であるが、この二人の関係性を如実に表しているとも言える。この仕組みについては、この記事群の最後に述べよう。
 さて、残念ながらここからはRewrite本編小鳥ルートEDまでのネタバレを含む。
 次項からは小鳥ルートクリアプレイヤーのみどうぞ。Rewrite本編をクリアしておく必要はない。
 もし、ここまでの説明でRewriteに興味を持った! という方は、是非そのまま↓のリンクからでもどこからでもいいから(アフィじゃないからね)購入してプレイしてみてほしい。
※どうやらスマホ版だと続きを読む記法が使えないようです。Amazonのリンクを目印にしてください。

Rewrite 初回限定版

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Rewrite 通常版

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成人/自由落下

 本日20歳と相成った。年金やらなんやらと一人前の責任が降ってくるようになると思うとなんとなく気が重い。

 「大人になった実感がない」という常套句がある。我々が漫然と時を過ごしていることが如実に現れる文句ではあるけど、ぼくの場合には今まで「あれ、まだ大人になってなかったのか……」と感じることの方が多かった。それはクレジットカードを作ろうとしたときとか酒タバコの表示を見たときとか19歳のまま成人式を迎えたときとかであったのだけど、体感だと18歳の誕生日くらいの時には気持ちが成人していたような気がする。いや、本当にイメージだけの話なので一切何の実利もないのだけど。
 ちょうどいい節目なので、これまでの半生を振り返ってみたいと思う。

もし人生に題名をつけるとしたら

 ――みたいなタグが、数年前Twitterで小流行していたように思う。その時ツイートした内容が、この記事の副題になっている。今一度考え直してみても、これ以上ふさわしいものはないと思える。
 自由落下。何にも縛られず、自ら動かず、ただ重力という途方もなく大きな力に任せて加速していく――そんな半生だった気がする。

 本当に何となく生きてやりたいことをやってきただけなのに、行き当たりばったりでたまたま目についたきらきらしたものを手にとって眺めていただけなのに、どんな場所へ飛び込んでもその場の良縁がすべて助けてくれたような、そんな思い出ばかりが蘇る。たぶんこれからも行き当たりばったりに生きていくだろうけど、もしそこが冷酷な地であっても今度は自分が先導できるようになりたいものだ。

 次に半生を振り返ったときには、どんな題名がついてるんだろうか。

ウサギは寂しいと死んじゃうんだってさ

 ぼくの敬愛する田中ロミオ氏が書いた「人類は衰退しました」の2巻に、「誰にも認知されなかった人間」がどうなるのか、というモデルの一つが登場している。彼は生まれてから全く誰にも観測されなかったがために、「わたし」ちゃんが彼を認知する(というよりは、「こういう人だろう」と決めつける)まで存在そのものがあやふやだった。
 もちろん後の展開も含めてこの話にはこの物語全体としての意味合いがちゃんと存在するから、ここからはぼくの拡大解釈ということになるけれど。
 彼の出自が示すのは、自認――自分が誰で、どんな人間なのかということ――は誰しも外部から押し付けられるのが最初なんだ、ということなのかもしれない。もっと踏み込めば、人は他人からの観測によってのみ人たり得る……とまで言ってしまえる。この辺りはクロスチャンネルの太一とも繋げられそうだけど、話がややこしくなるので保留。
 まあ、ここまで引っ張ってきて何が言いたいかというと、「自分を認めるためには、まず誰かに認めてもらう必要がある」、ということ、転じて、「誰かに自分を肯定してもらわないと、自分を肯定することはできない」ということは、ぼくたちの世界でも通用する理屈なんじゃないだろうか。言ってみれば単純なことなのかもしれない。
 たくさん誰かを褒めてあげよう。その人が自分を褒めてあげられるように。
 

ついったライフへの回顧とブログ開設のあいさつ

Twitterは日記帳?

 かつてTwitterの中で、そのTwitterのことを「日記帳のようなものだ」と評したことがある。他人のツイートに一喜一憂するバカバカしさに対するコメントだったと思う。思考の切れ端を適度な人の目に晒しながらマイペースに積み重ねていく作業は、当時のぼくにとってまさに日記を書くような感覚だった。その時は「ああ、ぼくうまいこと言ったなあ」なんて悦に入ったものだけど、日記帳として使うには明らかに片手落ちなんだ、ということにごく最近気がついた。端的に言うなら、それこそがこのブログを始動させた理由となる。
 たしかにあのツールは「今の気持ちを人に読ませることを前提に整理して、文章として書き留める」ことに関しては便利だった。気がついたら数年間で累計数十万文字もつぶやいていて、いつの間にか文章を書くのが好きになってしまっていたくらいには夢中になれた。
 でも、ぼくはとっても初歩的なことを見逃していた。
 ――日記帳って「書く」だけじゃなくて、あとで「読み返す」までがその機能なんじゃないの?
 本当に、バカバカしいまでに盲点だった。自分のツイートだけ読み返そうにも、散文的すぎて文脈がないから自分が何を考えていたのか分からない。リツイートに対するコメントも、そのツイートが消されていると意味不明。そもそもバックログを見返すのが手間だった。これじゃ「日記帳」じゃなくてただの「掲示板(アナログ的な意味で)」だ。他の人の落書きにあやふやなメンションを飛ばすだけのものを、よく日記なんて呼ぼうと思ったものだ。

書き残す、ということについて

 ヒトは知性あってこそ人たり得るものだ、とぼくは考えている(倫理学的な人格の定義についてはまた議論したいけど、ここでは割愛)。でも、ぼくの感じるその価値に対してあまりにも思考ってヤツは刹那的すぎて、考えた次の瞬間には泡になって消えてたりする。それは少々無常に過ぎる。せめて悪あがきとして、ぼくが生きてる間くらいは人生の節々で何を考えていたかを思い出せるように、その断片を残しておきたい。思考を世に残す方法は本当にたくさんあるけど、選ぶとするなら、文章で。もっと言うなら、電子媒体で。たぶんぼくにとっては、それが一番いい。
 このブログは、タイトルの通り備忘録として、何ヶ月か、何年か後の自分が「読み返す」ための外付け記憶領域として使おうと思っている。だから半分は自分用。もう半分はもちろん自分以外にも見てもらうためだけど、これには二つ別方向の期待があったりする。他人の目によってモチベーションを引き締めたい、という期待と、自分の思考を誰かに読んで欲しいという淡い期待。
「何かを残せる人間になりたい」
 ぼくの覚えている一番初めの目標、あるいは夢って、そんな純粋な願望だった気がするから。

おわりに(あいさつ)

 さて、初回からどうにもハードルを上げすぎてしまったような気もしますが、あまり高尚な内容ばかりにするのは避けたいところ。結果的にそうなってしまう可能性は否定できないんですが……
 まあ、忘れたくないことを文章にして残したくなったらここに来る、それくらいの気持ちでやっていきます。先述したように備忘録と銘打ってはいるけども、人に読んでもらえるような記事を念頭において書いていきたいです。
 ちなみに、どちらかというと独白にあたるトピックは常体で、呼びかけに近い形のトピックは敬体で書いていくつもりです。自分の中の、なんとなくの立て分けのつもりです。あまり気にしなくてもいいかもしれません。
 今回はあいさつも兼ねてここまで。次はいつ書くことになるやら……