変大佐の備忘録

「こころのなか」

ついったライフへの回顧とブログ開設のあいさつ

Twitterは日記帳?

 かつてTwitterの中で、そのTwitterのことを「日記帳のようなものだ」と評したことがある。他人のツイートに一喜一憂するバカバカしさに対するコメントだったと思う。思考の切れ端を適度な人の目に晒しながらマイペースに積み重ねていく作業は、当時のぼくにとってまさに日記を書くような感覚だった。その時は「ああ、ぼくうまいこと言ったなあ」なんて悦に入ったものだけど、日記帳として使うには明らかに片手落ちなんだ、ということにごく最近気がついた。端的に言うなら、それこそがこのブログを始動させた理由となる。
 たしかにあのツールは「今の気持ちを人に読ませることを前提に整理して、文章として書き留める」ことに関しては便利だった。気がついたら数年間で累計数十万文字もつぶやいていて、いつの間にか文章を書くのが好きになってしまっていたくらいには夢中になれた。
 でも、ぼくはとっても初歩的なことを見逃していた。
 ――日記帳って「書く」だけじゃなくて、あとで「読み返す」までがその機能なんじゃないの?
 本当に、バカバカしいまでに盲点だった。自分のツイートだけ読み返そうにも、散文的すぎて文脈がないから自分が何を考えていたのか分からない。リツイートに対するコメントも、そのツイートが消されていると意味不明。そもそもバックログを見返すのが手間だった。これじゃ「日記帳」じゃなくてただの「掲示板(アナログ的な意味で)」だ。他の人の落書きにあやふやなメンションを飛ばすだけのものを、よく日記なんて呼ぼうと思ったものだ。

書き残す、ということについて

 ヒトは知性あってこそ人たり得るものだ、とぼくは考えている(倫理学的な人格の定義についてはまた議論したいけど、ここでは割愛)。でも、ぼくの感じるその価値に対してあまりにも思考ってヤツは刹那的すぎて、考えた次の瞬間には泡になって消えてたりする。それは少々無常に過ぎる。せめて悪あがきとして、ぼくが生きてる間くらいは人生の節々で何を考えていたかを思い出せるように、その断片を残しておきたい。思考を世に残す方法は本当にたくさんあるけど、選ぶとするなら、文章で。もっと言うなら、電子媒体で。たぶんぼくにとっては、それが一番いい。
 このブログは、タイトルの通り備忘録として、何ヶ月か、何年か後の自分が「読み返す」ための外付け記憶領域として使おうと思っている。だから半分は自分用。もう半分はもちろん自分以外にも見てもらうためだけど、これには二つ別方向の期待があったりする。他人の目によってモチベーションを引き締めたい、という期待と、自分の思考を誰かに読んで欲しいという淡い期待。
「何かを残せる人間になりたい」
 ぼくの覚えている一番初めの目標、あるいは夢って、そんな純粋な願望だった気がするから。

おわりに(あいさつ)

 さて、初回からどうにもハードルを上げすぎてしまったような気もしますが、あまり高尚な内容ばかりにするのは避けたいところ。結果的にそうなってしまう可能性は否定できないんですが……
 まあ、忘れたくないことを文章にして残したくなったらここに来る、それくらいの気持ちでやっていきます。先述したように備忘録と銘打ってはいるけども、人に読んでもらえるような記事を念頭において書いていきたいです。
 ちなみに、どちらかというと独白にあたるトピックは常体で、呼びかけに近い形のトピックは敬体で書いていくつもりです。自分の中の、なんとなくの立て分けのつもりです。あまり気にしなくてもいいかもしれません。
 今回はあいさつも兼ねてここまで。次はいつ書くことになるやら……